手紙

これまでの人生で、たくさんの手紙を貰い、あるいは書いてきた。そして今年は思っていたよりも多くそれが起こった。筆まめな祖母が死んだとき、手紙を頻繁にやりとりするようなことはもう起こらないような気がしていたのだけれど、予想に反して、手紙はきた。人生は可能性に満ちている。

祖母は私と弟に頻繁に手紙を送った。内容は、季節のこと、日々の些細な出来事、孫たちの成長を喜ばしく思っているということで、つまり特別な内容はなかった。しかし手紙というのは身を震わせるような告白や驚きに満ちたものである必要はもちろんなく、私はあなたを思っている、ということを伝えるための、シンプルな、それでいて手間をかけた心情表現なのだ。だから心のこもった手紙が減って、メールの時代になってしまったという嘆きには首を縦に振れない。媒体が変わっても心のやりとりは充分に可能だし、自分なりの言葉を尽くしながら誰かに思いを伝えたら、それは手紙と呼ぶに値する。

長い付き合いの友人が、手紙は独白になりがちで、なかなか気が進まないと言っていた。彼の主張には一理ある。けれど私はそれでも構わないのだった。不特定多数の誰かに読んでもらい、多くの好意的な反応を期待する計算された文章よりも、むしろ、焼けたばかりのケーキのように生地の落ち着いていない、ふわふわとしたありのままの思いに私は触れたいのだから。肩を寄せて語り合うことができない分の、代替としての手紙なのだ。独白でも大切に受け取りたいと思う。

私が目下書こうとしている手紙は、ある悲劇に見舞われた友人に送る手紙である。本来ならばもっと早く連絡を取り合っているはずが、様々な事情でそれが叶わなかった。ここ数日、一行も書き出せず、筆を置いては実際に会いに行こうとして、しかし思い直して再び筆を取る、ということを繰り返した。実際にはパソコンを閉じたり開いたりしているのだけれど。

結論としては、まずはそのことから素直に書き始めようと思うに至った。私はあなたのことを思っている、と。

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