もしも裸になって話すことができたなら

少し前、形式的な場で話す機会があった。数年ぶりにスーツを新調し、ついでに靴も買った。普段買わないような、ヒールのある靴だ。私はヒールのある靴が苦手だ。思うままに延々と歩けないから。それでも靴を履き、背筋をしゃんと伸ばし、足の痛みなんておくびにも出さず―もちろん出してなかったと思う―涼しい顔で過ごした。

遡って、もっと昔の話。私はある学校の女子寮でアルバイトをしていた。夜は泊まりだったので、寮の大浴場で同じシフトの人とお風呂に入った。その夜が初対面であっても。出会って数時間しか経っていなくても、裸になって湯船に浸かると恋人や進路の話が次から次へと出てきてつい長風呂になった。裸の付き合いとはこういうことか、と当時納得した記憶がある。

英語では裸の付き合いのことを”completely open relationship”と言うらしい。確かに意味はその通りだ。「完全にオープンな関係性」。私は時々服を着て話さなければならないような人たちとも、裸でいられたらと思う。私は自分を気遣いができる人間だと自負することは決してしないけれど、それでも無意識のうちに気を遣っていることに対しては自覚的だ。気兼ねなく語り合えたと思っても、まだ足りないと思うときがある。何か伝えきれていない、あるいは受けれなかったものがあるように感じる。その隙間が裸になることで埋められるかどうかはわからないし、完璧さを追求するつもりもないけれど、お互い裸でいたら違う言葉が出てきたかもしれない。

これもまた昔、「家族だとか恋人だとか、そういった関係性のカテゴライズを抜きにして暮らしたい」とぼやいたことがある。隣にいた年配の人はひっそりと笑い、「僕たちはジャングルの中で生きているわけじゃない」と言った。彼の言うことは正しい。ここはジャングルではない。私たちはコンクリート・ジャングルで生きている。

でもコンクリート・ジャングルで生き抜くためには、性別や関係性を抜きにして服を脱ぐことも必要なんじゃないだろうか。これは極論だけれど、私は時々、服を着て過ごすことでとんでもない何かを失いながら過ごしているのではないかと思うことがある。

じゃあ服を脱ごうよと言われても、簡単にうんとは頷けない。私が服を脱ぐまでには、恐ろしく時間がかかるのだ。

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