少し前、自分の名前が出てこないことがしばしばあって、なぜだろうと考えこんだことがあった。「ここに名前を書いてください」と紙を渡されると頭が真っ白になってしまう。手が名前の書き方を覚えているので、間を置いた後に書き始めるものの、そこに書かれた名前が自分のものだという確証は持てなかった。
むやみに心配をかけたくなかったので、あまり人に言わなかった。もちろん病気の可能性もあったけれど、現在は何の問題もなく生活している。とにかく、症状があらかた治まった後、友人たちにそのことを話した。そこである友人から「物語を書いていることが関係しているのではないか」と言われ、その指摘は真相にかなり近いのではないかと考えるようになった。
物語を書くことは、海に潜る行為と似ている。好奇心の赴くままに潜り、仔細に観察する。けれどそこに長くは居続けられない。酸素が無ければ生きていられないのと同じように、物語を書く場合においても、物語を客観的に眺めるというプロセスは欠かすことができない。だから私は特殊な環境下に身を置くことで物語に没頭し過ぎてしまうことを避け、あくまで日常の合間に書くスタイルを保ってきた。それでも、海の底に心を置き去りにしてしまうことがある。海の底はあまりにも美しくて、現実に戻るのは不可能だと心は言う。
心ここにあらずという言葉があるように、私が名前を思い出せないとき、心はまさに海の底にいた。確かに当時は辛い立場にあって、よく腕を組んでは唸っていた。ただ、どんなに現実が厳しくても私は想像の世界に逃げたいわけではない。あくまで想像の世界が心にもたらす作用を追求しようとしているのだから、海の底の美しさに心を引き渡してしまうわけにはいかない。
さて、ではどうすれば良いか。
心を現実に引き戻す目的とは全く別に、私にはその頃から日記を書くようになっていた。日記を書くことは、海の中でしていることと大して変わらない。仔細に観察する。そして日記は物語よりも気軽に、シンプルに積み重ねられていく。現実に散在しているぼんやりとした光が集まり、ささやかながらに色彩を放つ。ただその過程を楽しみながら日々を綴っているうちに、心はいつの間にか戻ってきた。