先日、湯島の梅祭りへ行ったのだけれど、疲れて三十分程で帰ってきてしまった。
そもそも、梅は祭で見るものではないと思う。大挙して見るのではなく、庭先に立っているような一本の梅をゆっくりと眺めるのが良い。祭で見る梅は手入れが行き届いていてもちろん綺麗なのだけれど、梅のほうも祭の装いをしているようで、どこかよそよそしく感じられる。もともと私は人と会うとき、二人きりでひっそりと会うほうが好きな性質なので、梅もやはり親密な雰囲気の中で会いたい。
幸い、家の近くには見事な梅があって、春先はそこを通りかかるたびに立ち止まり、よく咲いたなと眺める。人通りも少ないので、気兼ねなく見る。梅は静かに見たい。静かに見ていると小さな虫の存在に気付くことができて、より確かに春を感じる。これが梅を見る醍醐味だと思う。
以前京都へ行ったとき、朝の時間に余裕があったので二条城まで出かけた。朝靄の残る梅林は人気が無く、神秘的な雰囲気だった。私はそこで梅の香りを吸い込んで、そこら中に草の芽が生えてきているのを見て、春が来たのだと感じて満足した。けれど春先というのは気がおかしくなる時もあって、梅林を出てしばらくの間はぼうっとしてしまった。その後は知人と合流して岡山まで車で向かったのだけれど、途中から時間の感覚が無くなって、その日一日は異様に長く感じられたような気がする。
ある春の夜には、梅をぼうっと眺めていたら、自分の身体の中に梅の花が咲いてしまったかのような気持ちになってむずむずとしたことがあった。梅はあやしい。ただ美しいだけではないから、愛されるのだと思う。
そんなことを書いているうちに、今年はどこかの庭園まで足を伸ばして梅を見ようかなという気持ちになってしまって、やっぱり春先は落ち着かない、なんて思っている。