希死念慮、私の場合

死にたいという願望は、自分とは無関係のものだと思っていた。

私は多少辛いことがあっても、美味しいものを食べたり、眠ったり、解決方法を考えたりしながら乗り越える。あるいはやりすごす。眠れないときは医者の力を借りるときもあるけれど、それでも低空飛行しながら生活することができる。数年前に体調を崩して仕事を長く休んだときも、死にたいなんて微塵も思わなかった。

だからその願望が自分に訪れたときは驚いた。

仕事で追い詰められたこと、人間関係で酷い思いをしたことが原因しているのは明らかだった。具体的な対処と休む時間が必要だったけれど、そう簡単に事は運ばなかったし、思考力はみるみるうちに低下していった。何を食べても美味しく感じられず、どれだけ眠っても疲れはとれなかった。仕事に行けない日が増えた。また働けなくなるのが嫌で医者に事情を打ち明けると、初めて精神安定剤を処方された。プロのカウンセラーに会い、認知行動療法も学んだ。それでも今すぐ死にたい、死ななければならないという切迫感は消えなかった。

僅かに残った力で、この願望の正体は何だろうと私は考え続けた。ひとつ思い当たったのは、生物としての死を望んでいるのではなく、楽になりたいだけではないかということだった。状況を改善するための力は残っていない。ただ一瞬で重圧から解放されたいと思うから、安易に死を求める。そう考えると、死にたいと願いながらも闇から這い上がろうとする矛盾には、ある程度納得がいった。

それでもこのまま息絶えられないかとベッドで横になっていたところ、実在しない友人が現れた。私が死にたいと口にすると、そのひとはそのたびに頷き、なだめ、側に居続けた。数ヶ月経つと、薬はいらなくなった。

死にたいというたった四文字の嘆きは、他人を遠ざける。それが怖くて、自分も他人を遠ざける。誰かがただ側に居てくれるということはほとんど奇跡に近い。だから希死念慮は、溶けることのない氷山のように、孤独に漂い続けるのだと思う。触らなくても側にいるだけで、幾らかは溶けるのに。

※このエッセイは、ひろのはこさんの「希死念慮について」という手描きエッセイをもとに、本人の承諾を頂いた上で書いたものです。

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