中国の偉人の「生について知らないうちから、死について知ることができるだろうか」という言葉に、私はなるほどと頷くと同時に、夏に死ぬのはどんなに気持ちが良いだろう、いつか死ぬときは夏に死にたいと思わずにはいられない。
私の親族のほとんどは示し合わせたかのように夏に死んでいて、葬儀も法事も汗をかきながら、女たちはめいめい日傘を持ち、男たちは少しの辛抱とネクタイを締めて、墓地へ向かうのだった。日本の夏は喪に服すための季節だと昔から思っていたけれど、身内が夏に死にすぎたせいでより一層そう思うようになってしまった。
のどかな田舎の風景と抜けるような青空に、さらさらした喪服の黒はやたらと映える。
今年の夏、またひとり身内が死んだ。ここまで揃って夏に死なれると、残された側は「困っちゃうね」とひっそり笑い合うしかない。乾いた墓石に水をかけながら、青空の下だと仏花も随分鮮やかに見えるのだと気付かされた。
冬に見送った記憶といえば、妹のように可愛がった犬だけだ。病気にかかってあっという間に死んでしまった。心の整理もつかない上に、冬の葬式はなんとも侘びしかった。三日三晩飲んだくれて、いい加減に帰ってきなさいと家族に怒られたのだけれど、当の私は渋谷の路上で吐いていたこと以外何も覚えていない。仕事もあったはずなのに、その数日間どう過ごしていたのか今でも不思議である。冬に死なれるのは本当に辛い。死ぬほうも、寒さのせいで余計心細さを感じるのではないだろうか。
暑いわねぇなんて言いながらビールをちびちび飲み、水も飲まないと駄目よと誰かに言われながら、うつらうつらと眠るように死ねないだろうか。真夏の青空を仰ぎながら死ぬ。これ以上の死に方があるだろうか。先に逝ったひとたちも、あなたも夏に死んだの、しょうがないわねぇ、なんて笑いながら迎えてくれるような気がしてならない。
疲れた顔をした親族たちの端っこで、いつか私も夏に、と静かに願うのだった。