インドに来てから数日経つ。
空港に着いたときからスパイスの香りがした。大袈裟ではなく本当に。街を歩き始めると香りの種類はどんどん増えた。道端のワゴンで売られている果物、魚、野菜の匂い。処理しきれない下水の匂い。排気ガス。野犬。人間の汗。私の鼻は休む暇がない。
バイクや車が途切れることなく走っているので、気を抜く暇もない。ぼうっとしていたらいつまで経っても道を渡ることはできない。信号なんてただの飾りだ。道を渡るときは、バイクを文字通り掻き分けるようにして渡る。クラクションは挨拶代わりのようなものなので、どんなに鳴らされても気にならなくなった。挨拶というよりは、もはや気分で鳴らしているとしか思えないほど鳴らすのだ。そんなものを気にしていたらキリがない。
バスだけは気をつけなければならない。人がいても容赦なく突っ込んでくる。今日も危うく轢かれそうになった。
インドは色彩豊かな国でもある。女性の着る民族衣装の配色に、飽きることなく見惚れている。ターコイズブルー、ショッキングピンク、渋い赤に目の覚めるような黄色。どの色も派手なのに、気品がある。日本の服がつまらなく思えてくるくらいだ。私の目は休む暇がない。彼女達はそんな美しい服を着たまま、涼しい顔でバイクに跨る。汚れを気にすることはないのだろうか。そんなことを考えながら歩いていると、うっかり野犬を踏んづけてしまいそうになる。
自分がそれまで抱え込んでいたモヤモヤとしたものがどうでもよくなってくる。だからどうした、という気持ちになる。けれどモヤモヤはしつこく追いかけてくる。野犬も民族衣装もカレーの匂いも追いかけてくる。だんだん「だからどうした」も言えなくなってくる。
インドのカレーは美味しい。私は辛いものが苦手なのだけれど、今までの人生で今が一番、辛いものを「美味しい」と感じながら食べている。
もう一ミリも頑張れないと思う自分と、何だってできると思う自分、そんな自分がせめぎあっているのだとある人に打ち明けたとき、どちらを選んでもいいのだと言ってもらったことがある。なぜかわからないけれど、この言葉は日本よりもインドで思い出したほうが真実味を増してくる。私は白旗を上げて倒れてもいいし、このまま世界の奥まで進んでもいい。
紙幣は突如廃止され、ヤギの群れが道を疾走する。インドは呑気な国である。