愛について書く。
愛について一番古い記憶は祖母である。祖母とは離れて暮らしていたけれど、電話や手紙を通じて私の成長を見守ってくれるひとだった。良いことがあれば一緒に喜んでくれて、辛いときには一緒に考えてくれた。アメリカに移住したときは長時間のフライトでも会いに来てくれたし、高校を辞めたいと悩んで家出したときも応援してくれた。祖母の愛は私が生きていくうえで、特に十代の頃、最も必要なものであったし、これが愛だと心のどこかで認識していたのだと思う。二十歳を過ぎてしばらくした頃、ありのままの私を見て、呆れながらも辛抱強く側にいてくれる男のことを意識するようになった。恋に落ちればそのうち愛が芽生えると昔はなんとなく思っていたけれど、その男がきっかけで、次第に愛について考えるようになった。
愛はたくさんの時間を共有することや、肉体的につながることで表現できると思っていた。けれどそれだけでは足りなかった。何もせずに見守ることや、距離を置くことも愛の形なのだと知った。愛する対象も単純に恋人には限られなくなった。なぜだかわからないけれど、私は異性の恋人に限らず、好きになったひとを好きになり過ぎる傾向がある。あまり多くのひとを好きになれない分少数に愛情が集中してしまうのかもしれない。これでいいのだろうかと思うときもある。それでも大切にしたかったら、相手を見て、精神的な意味合いにおいて側にいようとすることが愛なのだと今は思う。
お互いに愛想を尽かして縁を切ったり切られたりすることもあった。けれど永遠に続く、完結した関係だけを愛と認めるような完璧主義者でもなくなった。大切にしたいと思える相手がいることや、愛するひとと過ごした時間の集積が今の自分を幸福だと感じる大きな要因になっている。だから大切にしたいひとを前にして、どう接すればいいのだろうと不安に思うことがあってもそこから逃げることはない。ほとんどの場合において。
愛することは、まるで天女の羽衣を織るようだと思う。祈るように無心に織り、出来上がった暁に天へ昇っていってしまっても、それでもまた織らずにはいられないほどに職人的である。