ちょっとした事情があって、「セクシーな人とはどんな人か」ということについて考えている。
筋肉質な男性が良いとか胸の大きな女性が良いとか、そういった考え方があるのはわかる。けれど私が「セクシー」という言葉を使うとき、性的であること以上に生物としての魅力を求めているような気がする。
だから男性を誘惑するためのポーズをとった女性や、女性を惹きつけようと表情をわざとらしく作った男性には心惹かれない。むしろその安っぽさにがっかりする。セクシーさとはもっと、身体の底から熱を感じるようなものであるはずだ。
こうなったら気の済むまでセクシーさと向き合ってみようと思い、セクシーな人に関する本を読んで、セクシーな人を観察し続けた。セクシーさについてこれは譲れないと思うことが幾つかあったのであげておく。もちろん、私の好みに偏った見解である。
まず、セクシーなひとは話し方や動き方に余裕がある。動きの忙しない人は特別チャーミングで無い限り見ていて気持ちが良いと思えない。2つ目。大人の顔だけでなく少年(あるいは少女)の顔も持つ。広末涼子や浅野温子を思い出してほしい。彼女たちの魅力は見た目の美しさだけではなく・・・この話は長くなるので後にする。3つ目。いい匂いがする。自分に合った香水を見つけるのも大切だけれど、体臭に魅力のある人は最強である。体臭で惹きつけられることほど動物的に興奮することはない。まだまだ続く。胸を張って歩いている。のびのびと動く関節。曲線の美しい唇。力強い眼差し。自由な喜怒哀楽・・・エトセトラエトセトラ。
書き始めるとキリがない。
そんな折、ロバート・メイプルソープの写真展に行った。作品を一通り見終えると、身体がぼうっと熱くなっていた。そして最初に思ったことは「私は間違っていなかった」ということだった。彼が写真に収めていたのは、人間が生物として持っている美しさだった。性別や年齢、体型など関係ない。喉仏の膨らみ、皺の寄った手、骨が浮かび上がった背中、一点を見つめる眼差し。当たり前のようにそれらと同等に扱われる男性器や胸。温かそうな皮膚から躍動感が伝わってくる。近付きたい。触りたい。ついそう思ってしまう。
こういうことだ、と私はひとり納得して帰った。私は生物としての溢れんばかりのエネルギーを嗅ぎ取るときに、セクシーだと感じるのである。それにしてもこの数週間、電車やカフェでセクシーな人を見つけては観察して過ごし、大変楽しかった。怪しまれたかもしれないけれど、ちらちら見ていただけだ。よしとする。