先日東京都写真美術館に行ったとき、見る行為よりも感じたことを言葉にする行為を優先しているのに気が付いて、直感的に嫌だなと思ってしまった。
風景でも小説でも、見た後はしばらくぼうっとする時間が必要だと思っている。その時間を大切にすればするほど後々のふとした瞬間に思い出されて、自分の中に深く根付いていくような気がする。草花に水をやって水が葉に行き渡るまで時間がかかるように、物事には物事なりに必要とされる時間があるのだ。もちろん人間は植物じゃないから、すぐに反応しないといけないようなこともあるのだけれど。
最近は何でも「感想を教えてください」「内容を評価してください」というメッセージがついてくる。気持ちはわからなくもない。けれど期待の見え隠れするメッセージに私はうんざりしてしまうし、虚しさすら感じる。本当に良かったかどうかなんて後になってみてわかることも多いし、そのほうが重い意味を持つこともある。無理にその場で言葉を拵える行為は自分の感性を雑に扱っているような気持ちになる。
中学生の頃、初めて一人で絵を観に行った。どういったわけか選んだのはルネ・マグリッドの展示で、初めて目にしたシュルレアリスムに頭の中は「?」だらけだった。誰かに感想を言うこともなく、もやもやとしたものを抱えたまま帰宅して日々の生活に戻っていった。その経験は、鑑賞とは誰かに言われてやるものでもなければ無理に学びとろうとすることでもない、自由な行為だという価値観を形成したひとつの礎になっていると思う。
それでも先日言葉にしなければと思ってしまったのは、見えない流れに流されていたのだと思う。私は私のペースで物事を感じればいいのに。もともと私はゆっくり感じたり考えたりする人間なのだ。
ところで先日私が見たのは、ダヤニータ・シンというインドの写真家の作品だった。久しぶりにモノクロの写真を見て気付いたことは、私は写真を見るとき色彩に気を取られて線にはそこまで注目していなかったのかもしれないということだった。それ以外の感想は、きっとまたしばらくしてからふつふつと沸いてくると思う。