レトリカ4の感想を書こうと思っていたら随分と時間がかかってしまった。なぜなら読んでいる途中でマーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』を買ってしまったから。そしてレトリカ4で取り扱っているコンテンツがあまりにも幅広いから・・・。書評ではなく感想なのだから、ということで、あまり気負わず個人的に思ったことをつらつらと書く。
私がレトリカ4の中で最も印象に残ったのは松本さんの論考『コズミック・ハビタット―都市の呼吸困難』だった。東京で息苦しさを感じながら生きている私にとって彼の論考は自分の生き方とどうしても照らし合わせてしまう。私がマーク・フィッシャーの本を途中で手にとったのもこれが理由で、資本主義社会で生きることの行き止まり感について考えを深めたかった。
代替が存在しない世界、体制の転覆を望むこと自体が消費される世界、その世界の生きづらさについて、松本さんは「直観すること」を投げかける。
“ものごとを圧縮し、全体を見抜こうとすること。それは、全体を理解”したことにする”ことではなく、全体に「釣り合う=相当する」ような別のなにかを、「全体のようなもの」つくりだすことである。それは決して全体そのものではなく、全体を解釈しようとした努力、比較の技術と努力であり、鍛錬である。”
直観すること。それは真っ当な行為のように思う。真摯で、優雅でさえある。けれど、本当にできるのだろうか、とも思う。世界と接するにはもはや鍛錬が必要不可欠に思える。雑多な、卑小な物事に振り回され続けると、それこそうつ病になってしまう。マーク・フィッシャーのあとを追うわけにはいかない。
私はよく世の中から目を背ける。なぜなら正気でいられなくなるから。心身を正常に戻すことができる環境が必要である。そのせいか、私はよく世界と接するときに「ひとりでいてはいけない」と思う。生き残るためには、呆れてものも言えないような事象を共に受け止め、自分たちの言葉で理解、定義し、乗り越える方法について議論しあえるような共同体が必要だと感じる。
こう考えると、レトリカの活動自体がとても理にかなったものに見えてくる。彼らは集い、学び、新しい風を入れつつ、地方にも拠点を持っている。彼らのそんな姿が魅力に映るからこそ、レトリカ4の編集会議イベント「避暑(仮)」にも、レトリカ4の手渡し販売にも人が途切れず集まるのだろうと思う。私自身、すでにウェブでレトリカ4を注文していたにも関わらず、彼らに会いたくて新橋のルノワールで開催されていた手渡し販売会に向かった。
“いままでぼくたちがやってきたことは、要するに、社会のなかに自己解釈の場を実装することにある。”
実際には自己解釈よりも、もっと広がりの持つものであるように思える。彼らの自己解釈が重なり、増え続けていく。その先に見えるのは世界では「この道しかない」という言葉が一切の重みを持たなくなる。そんな希望を持たせてくれる。