原美術館でソフィ・カルの限局性激痛を鑑賞した。
これはソフィ・カルが過去に男と別れ、回復するまでのことを作品にしたもので、大きく二部に分かれている。一部は男と分かれるまでの日々を一日一枚の写真で追う。「XX DAYS TO UNHAPPINESS(不幸まであと何日)」というスタンプが全ての写真にカウントダウンのように押されていて、結末を知っていても不穏な空気に心がざわつく。写真の下には時折、彼らがやりとりした手紙まで展示されている。二部は二人が別れた後、ソフィ・カルが何人もの人達を捕まえて、自分の別れについて語り、そして相手の不幸についても語ってもらうやりとりを写真と布に縫われた文字で追う構成になっている。彼女はこの二部を経て、自分の経験を「ありふれた話」として捉えられるようになるのだ。
彼女はインタビューで、自分語りをするのではなく、当時の反応や体験を通じて鑑賞者自身が投影したくなるような作品を制作したいと言っていた。確かにこの作品はその役割を果たしていると思う。けれど私にはもうひとつ、この作品から感じたことがある。
私にも失恋したことがある。何年経った今でもひどかったと思うような。自分の身体の一部が壊死したような心地で日々を過ごした。ソフィ・カルのように、そのことを誰かに話したこともある(手当たり次第に人を捕まえて、ではないけれど)。
けれど説明しても、私の痛みは語り尽くせなかった。友人の失恋を側で見ていても同じことを思う。その人も思い出し、悩みながら言葉を紡ぎ出す。けれどやはりそこには言葉以上のものがあり、私はその言葉を聞きながら「それ以上のものがあるだろうと察する」だけである。痛みを感じているまさにその瞬間は、痛い、辛い、といった記号と、断片的な事実が吐き出される。事細かに語る余裕はない。
この作品は、そういった痛みとは根本的に分かち合えないことを私達に暗に伝えているのではないかと感じた。彼女は写真と文字でわかりやすく表現することによって、かえってそこには表現することのできなかった痛みの存在までも想起させようとしたのではないだろうか。
彼女の作品について考えを巡らせているうちに、私は過去の分かち合えなかった痛みについて記憶を探った。それはモノクロ写真となってひっそりと心の家に飾られている。あの白い邸宅で飾られていた写真達のように。 誰にも見られることはないけれど、ひとつの財産として、そこに存在している。