口紅を買う

口紅を買ってしまった。それも、自分の肌に試し塗りもせずに。

流行り病のせいで、化粧品売り場にいってもテスターはつかえない。「使いたい場合は店員に声をかけてください」と札を下げているところもあるけれど、わざわざ声をかけるのは面倒だし、試しただけで買わないのも気が引ける。それでもいつの間にか私は化粧品売場にいて、口紅を買っていた。人に会う機会がめっきり減って、会ったとしてもマスクをつけなければならないのに。

口紅は案外、人に会わなくても必要なものなのかもしれない。オードリー・ヘップバーンが主演した「ティファニーで朝食を」でも、「女は口紅もつけずにその手の手紙を読むわけにはいかないもの」と言っていた。初めてそのシーンを見たときはいまいちピンとこなかったけれど。

20代の頃は口紅が苦手だった。何度も塗り直すのが億劫だったのだ。それに、あまり派手な色をつけると、媚びていると勘違いされるのではないかと考えたこともある。それが今では人に会う予定のない休日になんとなく塗っては鏡を見ている。他人がどう思うかなんて、いつの間にかどうでもよくなった。

30代になってから、自分を温めたり保湿したり、香りでリラックスさせてくれるものに惜しみなくお金を使うようになった。口紅もそれらと同じように、ある程度年齢を重ねた女にとってはお守りのような存在なのかもしれない。

ちなみに私が買った口紅はvoyageという名前で、旅の予定が立てられずしょげている私を慰めるような温かいオレンジ色をしている。色以外の名前がついた口紅は、その言葉を身につけて歩くようで楽しい。

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