昨年、これは乗り越えられない、と思うことが起きたとき、私は百貨店に赴き、シャネルでハンドクリームを買った。シャネルのハンドクリームはたまご型の容器に入っていて、価格は6000円ほどもする。
馬鹿げていると思われるかもしれない。1000円あれば充分機能的なハンドクリームを手に入れることができるのに。ただ、シャネルのハンドクリームは当時の私にとって精神安定剤だった。悲しいとき、ぼんやりしているといつの間にか私の肌もつられて萎み、それを見てさらにわびしい気持ちになってしまう。このままでは負の連鎖だと思い、ふと高級ハンドクリームの存在を思い出したのであった。心底辛いとき、6000円払って一瞬でも気が楽になるのなら安いものである。補足しておくと、私は化粧品にお金を出すタイプではなく、このハンドクリームは私が持っているどの化粧品よりもずば抜けて高額である。
シャネルのハンドクリームは優雅な香りがする。静かで、成熟していて、満たされた女性の香りだ。しょぼくれた私とはかけ離れていると思いながらそれを肌にすりこむ。そして、落ち着かなければと言い聞かせる。
10代の頃はたくさん泣くと目の周りがぷっくり腫れた。それが歳を重ねるにつれてうっ血し、皮膚が弱るようになる。気がつくと指先までかさついている。泣くという行為が重すぎるのだ。現実世界に戻るために、頼れるものには頼りたい。
シャネルのハンドクリームを手に入れてから気づいたことなのだけれど、高級なハンドクリームを買う人は案外多いようだ。SPFが入った、香りのよいハンドクリームを友人に贈ろうと思ったら売り切れだったことがある。「ものすごい人気で、あっという間に売れてしまって」と店員に説明され、なんとかインターネット販売で手に入れたものの、大量に売れていったハンドクリームは今頃どんな人達の手元に届いているのだろうと思ったものである。ただの保湿クリームではなく、心のささくれにもしみこんでいるに違いない。