パンプスに素足を突っ込んで表に出たとき、春だなと思い、その気持ちをしばらく噛み締めた。かじかむほどではなく、空気の冷たさが心地良かった。表に出る機会が減ると季節を感じる時間も減る。今年は梅が咲き始めたことにもしばらく気づけなかった。
外出を控えることにすっかり慣れてしまっても、必ず出かけようと思う行事がある。東京都美術館で開催される国風盆栽展はここ数年通っている春の行事で、この日は雑事を忘れて樹齢を重ねた盆栽に見入る。満開の寒桜。五葉松の何層にも膨れ上がった木の肌、真柏のしなやかで優美な曲線。この盆栽展が開催される時期はまだ肌寒いけれど、それでも行く価値があると毎年思う。清々しい心地になって展示をあとにすると、もう数週間もすれば芽吹く桜の木の下を通る。
帰り道にヒメツバキが咲いているのを見つけて、湯島天神では梅まつりが開催されていることを思い出す。こんなふうにして自然を思う時間がなければ、春は私にとって存在しないも同然のように思う。ただし春は不調の季節でもある。花粉や気圧の差に振り回されるし、悪夢を見る数が増える。体が変化についていかないのだ。それでも最近はこの厄介事にすら貴重な季節の兆しを感じる。抗わずに布団をかぶってやりすごす。
以前、常夏の国で暮らしていた友人から「季節の変化がないと記憶があやふやになる」と聞いたことがある。人の記憶は「あの日は日差しが強く暑かった」とか「肌寒い日だった」とかそういった外界との接点から深みを増すものなのかもしれない。まさにその体験を今私はなぞっている。家にこもっていた数ヶ月は振り返ってみても記憶の掴みどころがなく、色彩の薄い写真のようである。
そういうわけで、最近は春だと思える小さな出来事を見つけては、金平糖を噛み砕くようにしゃくしゃくと口の中でいつまでも大切に味わう。細かく砕き、体のすみずみにしみこませたいと思っているのだ。