ベニーとジェッツの話をしよう。もちろんこれは仮名で、いずれも電車の中で見かけた人物の話である。
まずベニーについて。見た目から判断するに、二十代から三十代後半だと思われた。手入れされた、長くて明るい茶色の髪の毛。ファーのついたコートをまとい、ブランド物らしき鞄を持っていた。つまり彼女はどこにでもいそうな、ごく普通の女性に見えた。しかし彼女の周りには人がいなかった。朝の、猛烈に混んでいる時間帯にも関わらずである。私は音楽に集中していたのでしばらく気付かなかったのだが、彼女をよくよく見ると、手に持っている紙を引き千切り、周囲にばら撒いていたのである。
それだけでも驚いたが、耳を澄ませると、ここには書けないような罵詈雑言が彼女の口から飛び出してくる。目はどこか遠くを見つめているようだ。もうしばらく観察したかったが、彼女は大きな劇場の最寄り駅で降りて行った。実は彼女は舞台女優で、「ガラスの仮面」に出てくる北島マヤのように場所を選ばず演技の練習をしてしまうような女性だった・・・という顛末を想像したが、真実はわからない。
次はジェッツについて。こちらは二十代くらいだったと思われる。例に漏れず私はイヤホンで音楽を聴いていたのだが、わずかに聞こえてくる電車のアナウンスがいつもよりも長いような気がしてイヤホンを外してみた。すると、私が長いと感じていたのは電車に流れるアナウンスではなく、彼の独り言だったのである。しかし独り言だとは思えない程、流暢なしゃべり方なのだ。「スイカをお求めの際は・・・」、「グリーン車をご利用になる際は・・・」と、延々とアナウンスを続ける。
更に驚くべきことに、彼はこの内容を全て暗記していた。よくもあれだけ豊富な電車に関する案内を、途切れることなくアナウンスできるものだと感心した。同時にジェッツの声に聴き惚れもしたが、生憎私は途中の駅で降りなければならなかった。彼が美声を活かせるような職についていることを陰ながら望んだが、やはり真実は知る由もない。
今でも私は時々、彼らに思いを馳せる。人生に幸あれ、ベニーとジェッツ。