超能力が使えたら

先日、「超能力の実験に参加しませんか」と友人に誘われて、まあ怪しい、と思いながらついていった。その日は水中メガネのようなヘッドギアを装着して、目の部分に設置されたディスプレイで映像を見たり音楽を聴いたりする、ということをしたので、私が内心覚悟していたようなこと―空を飛んだりスプーンを曲げたり―は起こらなかった。ただ、このヘッドギアは「異世界にいる」と認識してしまうような作りになっていて、横を向けば映像も横へ流れるし、下を向けばまたその通りになるのだった。瞬く間に全く違う場所、例えば宇宙からナイトクラブへ移動したりするので、これはこれで一種の「超」能力だった。

ヘッドギアを装着しているあいだは、ディスプレイに映された世界しか見えない。その中では自分の意思で動くことができないし、身体をその映像内で視認することもできない(本当は出来るらしいのだけど、私のときはたまたま見えなかった)。つまり、自分はそこに固定された空気のような存在になるわけである。心細さは感じない。自分はそこにいるとわかっている。ただ、ある日突然、自分の姿が鏡に映らなくなってしまったかのような奇妙さがそこにある。私はもうこの世にいないのか、と半ば本気で思う。

『人間が人間である為の部品が決して少なくない様に、自分が自分である為には、驚くほど多くのものが必要なのよ』。まさに攻殻機動隊の世界である。

リラクゼーション方法の一種としての幽体離脱が流行したり、ゲーム感覚で他人の身体に乗り移るような時代がきても全く不思議ではなくなった。けれどそんなことが起これば、先のように「自分は何をもって自分がそこに存在していると言えるのか?」という疑問が否応なしに浮かび上がってくるような気がする。実際の技術発展ももちろん楽しみだけれど、その疑問に体感を伴って模索していくことのほうが、私にとっては何よりもスリリングな冒険のように思える。

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