美味しいサラダを食べる資格

最近、サラダばかり作っている。

今年はキュウリと鯖の水煮のサラダを毎日のように作っている。去年はキュウリとトマト、ひじきとミックスビーンズという具だくさんで色鮮やかなサラダが主流だった。どうやら私は夏が来ると「お決まりのサラダ」を作る習性があるらしい。白米のように、毎日食べていても飽きない。

熱心に料理をするようになるまで、サラダは「副菜」という文字の通り「添え物」として認識してきた。もちろん今でもサラダが主食になることは無い。しかし「食のイタリア文化史」というマニアックな本と出会ってから、私のサラダに対する価値観は変わってしまった。サラダとは副菜であっても、儀式のように入念に調理されなければならないものなのだ。長い描写なので残念ながらここでは全文を引用しきれないのだが、曰く、

野菜の泥を落とし、水で洗い、水気を切り、塩味をつけ、
油をかけ、混ぜ合わせ、
酢を加えて、さらに混ぜ合わせる。
それはサラダの掟にしたがって行われるべき作業である。
その掟とは次のようなものだ。
「サラダは十分に塩味をつけ、酢は少量で油はたっぷり」。
結論はこうだ。「この正しい教えに背く」者は
「美味しいサラダを食べるに値しない」人間である。

美味しいサラダを食べるに値しない!この強烈な一文を読んで以来、私は心を入れ替え、サラダを作るときは塩、酢、油を欠かさなくなった。酢はリンゴ酢を、油はサラダ用に軽い味わいオリーブオイルを用意するようになった。

私は大抵の事柄において規律を重んじるよりはアレンジしていくタイプだけれど、サラダを作る際は、細心の注意を払ってこの3つの調味料を使う。実際、例えば人参を細かく刻んだだけのサラダも、この調味料をバランスよく合わせることで味わい深い料理になる。

先日、粉砂糖のような、ふんわりと細かい塩を手に入れたおかげで、サラダがより一層美味しくなった。夏は私にとって、サラダを極める季節である。

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