東京ドームとカウンセリング

ここ数ヶ月で、「自分の人生で関わることは恐らく無いだろう」と思い込んでいたもののうち、二つも関わってしまった。人生は何が起こるかわからない。良い意味でも悪い意味でも。

ひとつはとても平和なもので、東京ドームだった。小さい頃から野球には興味が無かったし、スタジアムライブは広すぎて落ち着かなさそうな印象があった。しかし先日、東京ドームで巨人戦を観た。それもある日突然、神の啓示を受けたかのように思いたち、野球に詳しい友人に頼み込んで席をとってもらったのである。

選手の名前は一人もわからなかったけれど、野球は面白かった。野球は手に汗を握るというよりも、案外のんびりと観られるスポーツだった。サッカーは気を抜いた隙に点が入ってしまうことがあるけれど、野球には「ここぞ」というタイミングが、私のような素人でもわかる。それに、テレビでは伝わってこない、ファンの熱気のある声援は聞いていて楽しかった。テレビよりも生で観たほうがずっと楽しいと、確信を持って言えた。これが阪神戦だとそこそこ事情が変わってハイレベルな観戦力が求められるらしいのだけれど、幸いなことに私が観たのは中日戦だった。和やかな対戦だったと思う。

もうひとつはカウンセリングだった。海外にいる友人曰く、カウンセリングに行くなんて特別なことでも何でもないらしいのだけれど、心療内科に通ったことのある私でさえカウンセリングと聞くと未だ身構える。何が行われているのか想像がつかなかったからだ。とにかくその時は日常生活が儘ならない程切羽詰まっていたので、藁をも掴む思いで―こういうとカウンセラーに失礼なような気もする―行った。

これも想像していたよりずっと、悪いものではなかった。私は「誰かを救いたい」という思いが全面に出ている人を見ると辟易としてしまう傾向があるのだけれど、さすがにカウンセラーはプロフェッショナルで、心地良い程度に事務的に、それでいて温かく会話を運んでくれた。それ以来、問題は解決したのでカウンセリングにはかかっていないのだけれど、何かが起きたときの選択肢のひとつとして心の中に残っている。世界は悲劇に満ちているけれども、そう悪くない、と思えるものも、たくさんある。

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