穏やかな朝を迎える

美しい秋晴れ。冷静さを取り戻す。

涙が出るのは、季節のせいではないんだろう。

“彼”はよく私の目を手で覆った。見なくてよろしい、と。
きっと正しかったし、今もその手に守られている。
ただ、いつまでもそうしてはいられない。

「気をつけていなければならない」ということが、私がここ数年(あるいは十数年)感じていた、違和感のひとつだったように思う。

気をつけていなければ、同調圧力を感じてしまう。・・・実際のところ私は、この圧力を自分に向けられているものとして感じたことはない。恐らく器官が充分に育たなかったのだろう。幸いであり、素晴らしい。ただ周囲にそれがあると感じることはできるので、時々その危機を回避する。些かの不愉快さと引き換えに。

気をつけていなければ、美しい言葉が蹂躙されていくのを目の当たりにしてしまう。これは本当に苦痛で、電車に乗っているときは、ある視線の動かし方を身につけてしまった。広告が多いサイトも見ないしニュースもほとんど読んでいない。正直、あんな醜悪な言葉の使い方を見て何も感じない人間の気が知れない。私の友人も、あれにはかなりうんざりしていた。多分、言葉というものに敏感な人間ほど、疲れてしまう。つまり言葉に敏感な人間は生き辛い環境になっている。これは恐らく傾向こそ昔からあったのだろうけれど、2011年3月以降悪化の一途を辿ったように感じる。

気をつけていなければ、異常なことが目の前で当たり前のように行われていても、それはやり過ごさなければならないものだと思ってしまう。誰かが倒れていても通り過ぎていく。忙しいから、よくわからないから、仕方がない、のだろうか。暴力的な言動や、誰かを傷つけても知らん振りしているようなシーンを見ても、「仕方がない、みんな辛いんだから」で終わらせていくのだろうか。

気をつけていなければ、考える力を少しずつ削ぎ落とされて、ただの家畜になる。それをとてもわかりにくく、しかし確実に狙われている気がする。だからたくさんの人が苛々しているのかしら・・・。まあ、私から考えたり感じたりする力を奪うなんて、誰にもできないだろうし、させないけれど。

私は、良くも悪くも、違和感に敏感だったのかもしれない。だから気をつけていなくても「うまく」生き延びられるように、自分を少しだけ変えた。それを強くなったと言って誇ることはできない。
実際は強くなった部分もあるし、今の私は、すごく、素直に生きていると思う。
けれど、こんな世界で生き延びる術が、身についてしまっただけだと思うときもある。

考えたり感じたり出来るということが、大切にされないような場所に留まってはいけない。

今の私にできることは、それを心に留めて、書いたり、人と接することなんだろうと思う。

私のこういった部分を見つけて、守って、導いてくれたひとがいる。勝手に師として慕っていて、多分、仕事を辞めてもこの気持ちは変わらない。今でも時々素晴らしい手紙をくれる。生きていてよかった。このひとのおかげで、拙くても、少しずつ確かだと思えるような日々を積み重ねたいと思うようになった。

酷いことばかりじゃない。それだけは確かで、だからこんなふうに笑っていられる。他人と接したり、仕事をしたり、エッセイを書いたり、美味しいものを作ったり、出来るわけなんだけれど・・・
ただ、ここでは充分頑張ったと思う。
日本に帰ってから17年も経った。
ふらっと場所を変えるのも、いいことなんだろう。

他にもきっと色々あるのだけれどこれはまた暇なときに考えよう。

10枚+色々なものを書く。良い休日。
他にも調べ物がたまっているのだけど、目が疲れてしまった。

日本に来てゆっくりしたらと彼女に言いかけて、一瞬止まる。
別にいいのだった、場所なんて。
私がいれば、どこだって、「おかえり」は言える。

生姜を買ってきたので、これから今季2回目の生姜シロップ作り。

久々にベリーダンスの曲を聴いたらぐっときた。かっこいい・・・!
踊ろうかな。

追記
・・・ネズミの足音!!!!!

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