一杯の素晴らしいスープについて

吉田篤弘さんの「それからはスープのことばかり考えて暮らした」を読んでから、スープのことばかり考えて暮らしていた。自分でも呆れるほどの単純さで。ただ、想像してほしいのだけれど、もし目の前に温かく、全てが溶け合った、飲んだだけで心も身体も満たされるようなスープがあったら、どんなに素晴らしいだろう。

ここ数週間、色々なことが起きた。喘息の発症。起きてほしくなかった悲劇、驚き、決意。だから私はスープのことを思った。一杯の素晴らしいスープについて。

何かを作りたいと思ったとき、大抵の場合はレシピを探して、まずその通りに作ってみるというのが私のやり方だ。レシピはインターネットに溢れているようなものでも、本格的な書物に載っているようなものでも構わない。材料と手順を見てある程度納得のいくものであれば。

今回は何故かレシピを見なかった。私はなんとなくだけれど、このスープのイメージがついていた。まず、玉ねぎを細かく切って、バターでひたすら優しく温めることから始めるものであること。材料が多すぎないこと。エビとかアスパラガスだとか、そういうものはスープを複雑にしてしまう。もちろんそういったスープも美味しいのだろうけれど、それはまた別のスープだ。

生クリームを使わないこと。野菜のエキスが充分に出たことで、シンプルかつ、野菜そのものが持つ複雑さが表現されたものであること。咀嚼を必要としない、柔らかいものであること。

その結果、非常にシンプルなスープが出来た。玉ねぎをバターで温めて、細かく刻んだじゃがいもと水を少量加えて、全体が金色になるまで炒める。炒めるというよりは、優しく火を通すと表現したほうが正しい。だから最初から最後まで弱火なのだ。充分だと思ったらブレンダーでとろとろにして、味を見て塩を加えて、豆乳をほんの少しだけ入れてのばす。これでおしまい。手間さえかければ誰でも作れるようなスープだ。

一口飲んだときに確信し、気がついたら全てを飲み干していた。三人分も作ってあったというのに!後日再び作って、一緒に住むひとたちに振る舞った。誰もが温まるスープを、春が来るまでに、きっとまた何回も作ってしまう気がする。

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