カレンダーについて

これまでに、素晴らしいカレンダーに2つ出会ったことがある。そう、2つも!こんなにもカレンダーが溢れている世の中で出会えたのだから、実に幸運なことだと思う。

ひとつはNeuYearというカレンダーで、365個の四角いマスが曜日ごとに整列し、1枚の大きなポスターに収まっているものだ。月の変わり目に関係なく淡々とマスが整列していて、一見シンプル過ぎるのだけれど、それがかえって「1年」という時間をより強く感じさせる。”SEIZE THE YEAR”という、”SEIZE THE DAY(今を楽しめ)”をもじったキャッチコピーが印象的だった。

もうひとつは月のカレンというカレンダー。月の満ち欠けと日付、曜日、その月の数字だけが描かれている。文字を書き込む場所はなく、ただ月の満ち欠けを確かめるだけに存在するようなカレンダーだ。白と黒の二色刷り、手書きのような柔らかい線が気に入って購入した。会社のデスクに置き、時々眺めては「そろそろ新月か」と思う。

祝日がわかるようなカレンダーのほうが、ごく一般的な「社会人」にふさわしいのだろう。けれど実務的なカレンダーは、パソコンで幾らでも見ることができる。スマートフォンと連動し、他人とも共有できる。凄い時代だ。だから物質としての、ただそこに置くカレンダーには、小さな美であったり、日々を慈しめるような要素を求めてもいいだろうというのが私のささやかな主張である。

ところで、シェヘラザードを最近よく聴く。私の好きな第2楽章の「カレンダー王子の物語」はきっとカレンダーと関係が・・・と夢を見ていたのだけれど、これは正確には「カランダール王子」でカレンダーとは一切関係が無いのだった。昔の人は、空を観察して月の変わり目を確認し、大声で叫んで知らせていたのだという。ここでラテン語の「calo=叫ぶ」を引き継ぎ、古代ローマでは暦を「calendae=朔日(月の一番始めの日)」と呼び始めた・・・というのがカレンダーの語源説である。他にも諸説あるのだけれど、この叫びが今では言葉として受け継がれているのだと思うと、ロマンを感じる。

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