私にとっての木曜日、あるいは十一月という存在について

数年前、曜日と会話をするという遊びをしていた。月曜日から日曜日までそれぞれの曜日を擬人化させ、自分と曜日の間で他愛のない会話を繰り広げるのである。これがなかなか楽しくて、インターネットでも公開した。このことを覚えているひとはごく僅かだろうけれど、私が最も愛したのは木曜日だった。

私は何故か「節目として祝われる一歩手前」というものが好きで、つまりそれはTGIF(Thank God It’s Friday)と多くの人に喜び迎えられる金曜日という存在の一歩手前、木曜日なのだった。明るくて愛されるキャラクターの金曜日とは異なり、木曜日は静かで、それでいて私を週の最後まで導いてくれるような叡智と優しさを持った曜日だった。そういうわけで木曜日がやってくると、私はまるで週に一度しか会えない恋人と再会したようにそわそわするのだった。

十一月に親密さを感じるのは、それと似た理屈なのだと思う。

私は毎年十一月になるとその年の振り返りをしたり、部屋を片付けたりして、一人でいそいそと準備を進める。そして十二月になれば、あとはジェットコースターのように過ぎていくのを楽しむだけである。それはまるで十二月とリズムの早いダンスが踊れるように、十一月がエスコートしながら、ウォームアップとしてのダンスを踊ってくれるようなイメージである。やはり、一歩手前という存在は優しいのである。

今年は十一月の初旬に体調を崩してしまい、持ち直した頃には半分が過ぎていた。少し残念ではあったけれど、悲しんではいない。色づきの浅い銀杏並木を眺めていると、よく頑張った、という声が聞こえてくるような気がする。乾いた空には終わりを告げる風が混じっていて、私はその風に身を任せて動いている。十一月とはそういう月なのである。物悲しい季節でありながらも、手を引いてくれるような存在。共に過ごすことのできる残された時間を、ゆっくりと味わいながら過ごしたいと思う。

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