一九八四年は面白いけれど、不吉な予感がまとわりつくので没頭して読むにはすこし厳しい。箸休めとしての平和な本を・・・と思っていたら、昨夜よしながふみの「ジェラールとジャック」を本棚の奥から見つけてしまい、頭の中はよしながふみでいっぱいになってしまった。もう箸休めどころではない。ボーイズラブというひとつのジャンルにあてはめてしまうことが憚られるような傑作だなぁと、読むたびに思う。頭の中はもう歓喜の渦でぐちゃぐちゃだ。
手をつけられるようになったものと、まだそうでないものについて再び考える。
心の中に受容体(と暫定的に表現する)が発生する、あるいは消えてしまうのはなぜなのだろう。極端な話、今はホラーが嫌いだけれど、いつかホラーを読んでもなんとも思わなくなる日がくるのかな。グールドのピアノだって、昔は全然受け付けなかったのに、ある日から何故かグールドを聴かないと落ち着かないと思ってしまうことがあった。
年齢や経験という単位はこの場合大き過ぎる。何かもっと小さな日常の変化の集積が影響しあっているように思う。受容体というものがそもそも、絶えず変化し続けているということもあるだろうし、肉体の移植手術を受けても情態が変わるというし。人工知能を勉強している友人に今度話してみよう・・・。
近所の公園は色づき始めて、それ目当てでやってくるひとたちがいた。
もう少ししたら全てが金色になって、深夜徘徊シーズンが始まる。
銀杏は人のいなくなった、静かな夜更けに眺めるのが好き。