てづくり

午前三時。薄い闇の中でデジタル時計のゼロが綺麗に二つ並んだのを確認すると、私はのっそりと身体を起こした。この時間になっても眠れない場合、私は一度部屋を出ることにしている。
カプセルホテルのように小さい、身体ひとつ分の部屋から抜け出すと気だるさで手足が重く感じた。壁一面には小さな扉が並んでいて、点々と並んだフットライトがカーペットを照らしている。
リビングに入ると、繭ちゃんがソファでホットミルクを飲んでいた。はちみつ色の照明に、ラベンダーのアロマオイル。一定に保たれた温度と湿度。ここにあるあらゆるものは、快適な眠りのために整えられている。
「起きちゃった?」
「うん」
正確には一睡も出来ていないのだけれど、私はそれについては言及せず、向かいのソファに寝そべった。繭ちゃんは私にピンク色のクッションを渡してくれた。私はそれを枕代わりに頭の下に置く。
「繭ちゃん、いつ来たの?」
「一時間くらい前かな。宿直室で寝てもいいんだけど、ここの方が落ち着くから。タクシー使っちゃった」
そう、と言って私は微笑んだ。看護婦として働く繭ちゃんは勤務時間がころころと変わるので、睡眠時間を調整するためによくここへやってくる。
「さっきサツキさんがストレッチしてたよ。この本、わかりやすくておすすめだって」
マガジンラックから取り出された本は、大きな図柄でストレッチの手順が書かれていた。眠る前のストレッチ、と表紙に書かれている。
「試してみる?」
「うん」
この数ヶ月、眠るためにあらゆる手段を試してきた。軽いストレッチが快眠につながることはよく知っている。それでもなお眠れない場合について、深く考えることさえしなければ。
首を前に倒し、後ろに倒し、ゆっくりと回す。肩から出すように、腕を伸ばす。雑誌を見ながら身体を動かしていると、安斎さんがやってきた。最近この家に通い始めた、三十代半ばの男性だ。
「何してるの」
「ストレッチです。寝付きがよくなりそうだと思って」
「きつそうだな」
「気持ち良いですよ。一緒にやってみます?」
安斎さんはためらっていたけれど、繭ちゃんのエールもあって、私達は並んで立った。私たちの動きを真似する安斎さんは、最初ぎこちなかったけれど、次第に表情が柔らかくなっていく。
「眠れませんか」
一段落してから聞くと、安斎さんは小さく頷いた。
「薬のおかげで、最初はすんなり寝たんだよ。ただ、夢見が悪くてね」
夢。私は一瞬沈黙した。夢は所詮夢だ。けれど、酷い夢は緩やかに心身を壊していく。
「短冊、描いていきます?」
私はリビングの角を指差して提案した。そこにはハートや星の形に切り取られた紙で作られた、可愛らしいモビールが飾られている。これはオーナーの初美さんが作ったおまじないだ。怖い夢を見てしまったとき、次はどんな夢を見たいかをこの紙に書き、その場にいる誰かかカウンターにいるスタッフに吊るしてもらう。
「私、吊るしますよ」
安斎さんはありがとう、と言って星形の紙とペンを手にとった。
この家には細かいルールがたくさんある。電子機器や音の出るものは使用禁止で、全てロッカーの中に入れること。禁酒、禁煙。大声をあげないこと。短冊を書くひとがいたら、優しく見守ること。これらを守れば、私達は眠るために最適化された空間に来ることを許される。
安斎さんの紙を吊るした後、私達三人は呼吸法というものを試して、解散した。

部屋に戻ると四時近かった。
「眠らなくてはならない」という考えは自分で自分にかけてしまう呪いの一種だと、初美さんは言っていた。横になって目を瞑っているだけでも身体は休まるし、自然に訪れる眠りに身を任せればいいのだと。
それでも私は時々、怖くなる。眠れない夜に蘇ってくる、たくさんの記憶たち。それらは眠りにつくことのできない時間の分だけ大きくなって、私の身体を食い荒らす。
繭ちゃんや、安斎さんと過ごした時間のおかげだろうか。私は心地良い疲れを手に入れて、その夜は恐怖を遠ざけて眠ることができた。

杏の結婚式が終わってから、半年が経つ。当時に比べれば、だいぶ回復したように思う。たくさんの入眠剤、たくさんの悪夢。それらは徐々に私の生活から去りつつある。

悪夢。
どうしてあんな悪夢を見てしまうのだろう。今となっては恐怖を通り越して、神秘さえ感じるときがある。
柔らかな肌を包むドレス。細かい泡でできたようなベール。そしてそれを持ち上げる、不吉に大きな手。
咲いたばかりの花が踏み潰されてしまうようなグロテスクさに耐え切れず、私はそこで視線を落とす。これが夢だと、私にはわかっている。目を覚ましたいと強く願うのに、夢は最大の難関であった披露宴のスピーチへと私を連れて行く。
現実では心を無にして乗り越えることができたスピーチを、夢の中で私は失敗してしまう。途中から涙が止まらなくなり、何も言えなくなる。杏の反応が怖くて、顔を上げることができない。放課後の美術室。お互いをモデルにして書いた絵。二人で見たもの、食べたもの。肌を重ねたときの、泣きたくなるような安心感。それらが一緒くたになって私の胸を押しつぶし、とうとう地面に膝をついてしまう。
夢はいつもそこで終わった。

この家には窓が無いので、朝が訪れたことを確かめるためには時計を見る必要がある。午前七時。充分に眠ることができたとは言えない睡眠時間だったけれど、身体は昨夜よりも軽くなったように感じた。しっかりと目を覚ますために冷たい水で顔を洗い、リビングへ行く。カウンターには千尋さんが立っていた。最近働き始めた若い女性だ。
「おはよう」
「おはようございます。眠れました?」
なんとか、と返し、私はミントのハーブティーを頼んだ。注文を受けてカップを取り出す、彼女の手を目で追う。悪い癖だ。色白の女性を見かけると、反射的に手や顔の輪郭を追いかけてしまう。頭の中で、杏の身体を再生しながら。
「熱いので気をつけて」
ありがとう。そう言ってティーカップを受け取ったとき、私はようやく彼女の顔を正面から見つめた。一重瞼の、切れ長の目が優しくこちらを見ていた。私も自然と微笑んだ。

そのとき、ふと気がついた。
昨夜の繭ちゃんや、安斎さんと話しているときもそうだった。心の中で私は、大丈夫よ、と語りかけている。いつも。目の前にいる相手に対しても、自分自身に対しても。そして、微笑んでいる。
その元を辿ると、杏の姿があった。微笑みながら私の話を聞き続けていた杏。口の端をほんの少しだけ持ち上げて、身体全体で私を受け止めようとしていた杏。微笑みと呼ぶにはささやかすぎるかもしれない、あの控えめで静かな温かさ。
不意に、鳥肌が立った。私は杏の一部を再現しながら生きているのだろうか。それも、無意識のうちに。

時計を見ると、七時四十分になろうとしていた。私は慌ててハーブティーの残りを飲み干す。
「いってきます」
いってらっしゃい。そう朗らかに答える彼女は、美しかった。

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